http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1097096.html
あと友人が「ゲームはシナリオかシステムか」
っていうことを書いてたので、それにも反応しつつ。
ゲームはストーリー性だと思ってます。
ここでいうストーリー性とはシナリオとはちょっと違うものです。
シナリオが、テキストで説明されうるような話の展開をあらわすのに対して、
ストーリーは、ちょっと文系的な意味で使って、「物語」と考えて、
「プレーヤーが遊びはじめてから遊び終わるまで」の一連の物語と考えます。
つまり、購入して、ゲーム機につっこんで、んでプレイして、寝て食って、
エンディング見るまでがストーリーです。
なぜこう考えるかというと、
ゲームほど環境に左右されてきてるメディアもそうそうないと思うので。
例えば小説は竹取物語の時代から「本」です。
音楽もそれが始まった原初のときより音の波形を耳で聞き取る形です。
映画、ドラマ、演劇も形は変化しません。
逆に言えば、形が変わったものは別の名称がつきます。
フラッシュとか。ニコ動とか。特定名称がついて、
それは「別の媒体」としての性質を一種もつわけで。
だけど、ゲームだけは、どんなに技術革新が進んでも「ゲーム」。
古く「PONG」の時代から今のWiiFitに至るまで、
全てが「ゲーム機」であり、それに乗ってるソフトは「ゲーム」です。
これはすごいことで、FF1もDQ1もFF13もDQ8も、
全部同じ土壌で語られちゃうわけです。
それでも全部ゲームで、その機種その機種のポテンシャルがどうあれ
その中で最大限の工夫をすることが求められていて、
それは僕も賛成なので、そこにこそ「ストーリー性」として
語りうる部分が現れてくる。
違うからこそ、そのゲームを遊ぶに至る全ての過程が
そのゲームの内容として語りうる。
WiiFitはゲームの中「だけ」で完結するゲームじゃなくて、
そのゲームを得る感覚を図るものさしの中には、
当然に「その人の身体感覚」という、
作る側からはコントロールし得ない部分も入ってくるわけで。
ここも全部含めて「ストーリー性」として評価するしか、
ゲーム全体を比較するすべがなくなってしまうと思うのです。
そうじゃなければ、このシステムの多様性を語ることはできないし、
アーケードで遊ぶことと家庭用で家で遊ぶことは同一になってしまう。
で、なぜこの頭のURLを入れたかというと、
この最近の新作否定の論調さえも、
「ゲームの一部」として語りうるのではないかと思うのです。
FFは1から7までしか認めない。
10-2はひどい出来だった。
こういう話がよく出てきて、失望なり落胆なり論争なりよくしてますが、
そもそもFFとは何かという命題でさえ共通に
さえなっていない幻想の域をでないわけで、
それを確定させることもナンセンスだし。
あまりに多様化していると、ユーザーに応えるのは不可能で。
でもこの「ストーリー性」の面から言わせてもらえば、
この「FFについてうんぬん言う行為」でさえ、
FFなければ成り立たないものであり、
FF13の発表を機にFFについてコミュニケーションする、
そのことそのものが、内容どうあれこれ以上なく
「FFについて楽しんでいる」と言えると思うのです。
ホラーは怖がるためのメディアとすれば、
揶揄して盛り上がるためのメディア、
とそう決め付けるかどうかは別として、
大きな波を起こしているだけで、
すでにメディアとしては十分成功している。
総括してざっくり要点だけ。
・ゲームほど縦横の比較できないメディアもそうそうない
・だからゲームを取り巻くあらゆる状況を比較対称とする(ストーリー性と呼ぶ)
・現状ナンバリングタイトルが置かれる批判状況でさえ、
そのゲームがすでに成功しているという説明になる
…ってな感じです。
携帯ゲームを屋外でプレイするとき、音を消す場合があります。
そう考えられるなら、音がなくても感動できるようにするか、
最初に「音が重要なのでぜひヘッドホンを」という注意をいれる、
そういう選択さえゲームの質を決める。
さらに言えば、自宅で遊ぶことが前提とされている、
テレビの音を出すのが想定されている据え置き機は、
「そのようにデザインされたストーリー性を含むゲーム」
を生み出す。
まぁ、代わりにちょっと抽象的な話になっちゃうんですけどね。
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